■
3
「一体どういうことなんだ、ミュール」
ようやく体の自由を取り戻したクロアがミュールの両肩を掴み、詰問する。2人とも今は裸ではなく、それぞれの服を着ている。ミュールはいつもの黒いボディスーツ姿だ。
「言ったでしょ。実験だって」
実験。さっきの己に対する一方的な行為が一体何の実験だと言うのか。セクシャルバイオレンスの間違いではないのか。ミュールの言動は時々意味不明なことがあるが、いつにも増して、その真意が図りかねる。
「ほら、私に対して何か思うところがあるんじゃない?」
何かを促すミュールに対し、クロアは無言をもって返答とする。
沈黙が2人の間を支配する。
沈黙。
視線を斜め下にずらしつつ、ミュールは再度問いかける。
「ええと、さっきの、凄く気持ち良かったでしょう?」
確かに今までにない快感を味わった。が、同時に未だかつて受けたことの無い苦痛と屈辱をも味わうことになった。まさか足で踏まれて絶頂を経験することになるとは。ココナに知られでもしたらもう生きていけない。
やはりクロアは無言でミュールを睨むだけである。
いよいよ気まずそうに、3度目の正直を重ねるミュール。
「あー、ええと、心の奥から、例えば、もうミュール様無しじゃ生きていけない、とか、一生ミュール様について行きたい、だとかいう気持ちが湧き上がってきたりはしていないわけ?」
ミュールの半ば冗談めいたその一言で、クロアの導火線に火がついた。
「そんなわけあるか!いくらパートナーだからって、こんな一方的なやり方があるか!遊びにしたって限度があるぞ!」
§
しまった。どうやら自分は間違ってしまったらしい。しかも思い切り彼の中の地雷を踏んでしまったようだ。
確か前に読んだ文献では、女が一方的に男を責め尽くすことで、真実の愛が芽生えてハッピーエンド、みたいな話があったのだが。
クロアは心身ともに被虐気質だと言うことは今までの付き合いでわかっていたし、文献に登場する女は自分ほどの外見で、男はクロアくらい、とまさに自分達にうってつけのシチュエーションだと思っていた。
クロアが言うような遊びではなかった。ただ自分は、彼が自分にもっと夢中になって、ずっと自分から離れないようにしたかっただけなのだ。
だから、さっきのような恥ずかしい真似をして、彼を責めて、責め立てて、責め尽くして、責め、
あれ。
あれれ。
やはり、やりすぎのような気がしてきた。今更ながら。流石に足で踏むのは無しだろう。
いや違う。そもそも、自分はこんなことを望んでいたか?
一方的な快楽を与えて、それで彼を懐柔しようなどと。
これでは、仮想世界で彼を誘惑した女と同じじゃないか。
自分は、あくまで対等な関係として、彼と生きていきたいと思っていたはずなのに。
いくらなんでも、我ながらどうかしすぎていた。
動機はどうあれ、結果としては、自分が間違って、彼を怒らせてしまったことは確かだ。心を、プライドを、傷付けてしまった。
ならば、素直に詫びるしかない。
しかない、のだが、なぜかいつものように巧い言葉が出てこない。
その間にもクロアは悲しそうな顔で言う。
「俺はきみのことを信じて、好きになって、きみにも受け入れてもらえて、やっとこれから一緒に歩いて行けると思っていた。でもミュールは、違ったのか。いつもの興味本位のお遊びに俺を巻き込んだだけなのか」
違う。そんなわけない。貴方は私を赦してくれた人、解き放ってくれた人。惹かれていると言えないこともない、好き、な人。ずっと一緒にいたいと思える、初めての、人。
だから違う。違う。
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
違うの、よ。
そして、気付けば口から言葉がどんどん勝手に溢れ出ていた。
「違う。違うわ。遊びなんかじゃなかった。本気だったわ。貴方だから、あんなことだって平気でできたのよ。初めて、だったけど頑張ったのよ。ああでもしないと、いつか貴方が私の元を去ってしまう気がして。不安なのよ。不安でいっぱい。貴方がどんなに私を想う言葉を、詩を、紡いでくれたとしても、心の中にいる黒い私がそれを否定してしまうの。どうせ裏切られる。置いて行かれる。そしてお前はまた独りになる、って。信じたいのよ、貴方を。信じたい。けど、どうしても駄目なの。どうすればいいの?私は貴方に何をしてあげればいいの?いくら考えてもわからない。こんなこと初めて。どうすればいいの、教えて、ねぇ、クロア」
本音の自分。弱い自分。彼の前では見せないように振舞っていた自分の本当を、全部ぶちまけてしまった。
彼は面倒くさい女だと嫌がるだろうか、自分のことを信じていない女に失望するだろうか。
次に彼の口から放たれる言葉を、断頭台に引き立てられた死刑囚のような心持で待つ。
しかし、
さっきまで怒っていたはずの彼は、仕方のない奴だな、といつもの優しい笑顔で、
「ミュール、自分で言っただろう、あの丘で。ここから始めてみよう、って。不安なのは当たり前だ。人間なんだから。俺だって不安はある。だけど、その不安だって2人でなら乗り越えて行けるんじゃないか。どちらか一方が何かを与えなきゃいけないとかじゃなくて、嬉しいことも、楽しいことも、辛いことも全部分かち合って行けばいいと思う。あの時の詩のように。手と手を取り合って。俺はきみとならどんな険しい道だって歩んで行ける。きみが石に足を取られたら、俺が助ける。手を差し伸べる。きみが間違った道を進もうとしたら、俺が正す。手を引っ張る。何度だって言う。俺はきみと、ずっと、共に歩んで行きたい。ずっと、一緒に生きよう、ミュール」
そう告げたのだった。
§
嬉しい。
素直に嬉しい言葉だった。ここがコスモスフィアの中だからだろうか、彼の言葉ひとつひとつが、嘘偽りのないものとして、心からの想いとして伝わってくるのを感じる。
これならば、やはり彼ならば、安心できる。
今度こそ本当に、そう実感できた。
「もう大丈夫。ごめんなさい。あと、あ、ありがとう」
恥ずかしいし、プライドがちょっと邪魔したけれど、そう素直に告げることができた。
「なぁミュール。仲介役は居ないけど、もう一度あの儀式をやらないか」
クロアの突然の提案に対し、ミュールは笑顔で、
「ええ」と返した。
今なら自然に頷くことができる。
「まずはミュールからだな」
本来の仲介役であるミュールの心の護、彼女を「母さん」と慕うアヤタネは、気を遣っているのか、あんなことがあったので気まずくて出て来られないのかは知らないが、今回は全く姿を見せていない。よって、互いに誓いの意思を問い掛ける形になる。
「ミュール・テイワズ・アルトネリコよ」
「はい」
「そなたは、そなたの持つ心の全てをクロアに預け、嘘偽りない己を、彼に捧げてきた事を誓いますか?」
「ち、ちか、誓います」
しまった。また噛んだ。
気を取り直して。
「それじゃ次は貴方の番ね。あー、こほん。クロア・バーテルよ」
クロアは苦笑しつつ、
「はい」
「そなたは、そなたと分かち合った娘、ミュールを後生大切にし、常に深い絆の元、分かち合い続けることを誓いますか?」
「はい。誓います」
「そなたは、他の娘には一切目を向けず、ミュールのみを生涯愛し続けることを誓いますか?」
「ああ、もちろんだ」
ノリで続けたら即答されてしまった。
「そ、それでは、誓いの抱擁を、わ、私に、してもいいわよ」
まずい。顔が熱くなっている。これは確実に赤面している。
クロアは黙って頷くと、ミュールの体を引き寄せ、優しく抱きしめる。
あたたかい。
クロアの体温が伝わってくる。
これが人の温もり。
生まれて初めて与えられたもの。
知らず、涙が流れる。
ミュールも両手をクロアの腰に回し、想いを込めて抱き返す。
「ミュール。人間のこういう儀式には、続きがあるんだ」
抱き合ったまま、クロアがそっと呟く。
「ええ、そうね」
見つめ合い、どちらからともなくそっと唇を寄せる。
軽く触れるだけの口づけ。
当然知っている。私を誰だと思っているのか。
しかし、さっきはあれだけ過激なことをしたのに、抱擁もキスも、これが本当に初めてだ。
つくづく前途多難だ、とミュールは思う。
だが、もう不安はない。
私のクロアが好きという気持ちとクロアが私を好きだという気持ち、それが同じもので、ずっと変わらないものだと信じることができるから。
さぁ、現実世界に戻ったら故郷へ旅立とう。
もう独りじゃない、新しい私として。
「はい、よくできましたっ!」
眼前が急に光ったかと思うと、そこに純白の少女が立っていた。
長い黒髪を両サイドで結び、真っ白なフリルの付いたワンピースを纏う少女。
ミュールの深層意識にある本質、何物にも汚されていない、真っ白でまっさらなミュールの象徴たる存在。
その彼女が、抱き合う2人の前に、満面の笑みで出現したのだった。